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司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『義経』奥州平泉編(下)

 


平泉MAP

3.毛越寺(もうつうじ)

毛越寺は慈覚大師により、850年に建てられた嘉祥寺に始まる。藤原氏ニ代・基衡によって本格的に建立され、三代・秀衡によって完成された。
かつては中尊寺を凌ぐ規模を誇ったが、平泉の役、さらにその後の戦乱で殆どの建物が失われた。しかしながら、近年、埋もれていた浄土庭園が発掘・復元され、その美しい姿を見せている。

重里記者と、道に面した門を抜けて中に入る。掃き清められた参道を進むと、正面には本堂が見える。その右手に目を向けると、浄土庭園が広がる。
左右に大きく伸びやかに大泉池が広がり、池の向こう側には森が見える。その風景を見たとき、心が開放され、穏やかで清々しい気持ちになったような気がした。


毛越寺本堂
かつては写真の右手、浄土庭園と
その先が寺域だった。
秀衡と義経もこの道を歩いたのだろうか。

南大門跡と浄土庭園
司馬遼太郎はこの場所に立って、
秀衡と義経の出会いの場面を
想起したのではないだろうか。

浄土庭園(大泉池)
この美しさは私の写真では表現できません。
平泉を訪れる方は肉眼で全景をご覧ください。

金堂(円隆寺)跡
今は礎石だけが残る

『義経』という小説の中で、最も印象に残る場面の一つは、藤原秀衡と義経の対面ではないだろうか。その情景は司馬作品全体の中でも屈指の美しさではないかと思う。

 藤原秀衡は、六十を越えている。
 かれの祖父・清衡、父基衡は、いずれも奥羽の王者たるにふさわしい豪宕
(ごうとう)な人物であったが、三代秀衡の器量はそれを越えている、という評判がある。創業の清衡は毒をぬった利刃のように油断のならぬ人物であったが、二代目基衡にいたって風貌に山岳のような大きさを加えた。三代秀衡は、前二代のそういう英気を継承しつつ、さらに寛仁大度を加え、潮の満ちあふれるような包容力があるといわれている。
(これが秀衡か)
 九郎は歩きつつ、まだ見ぬころ漠然ともっていた秀衡像を、わが手であわてて掻き崩さねばならぬ狼狽を、内心に感じつづけていた。もっとも、九郎は、秀衡の偉大さを知ったというわけではない。若さは、老人のように、他人を理解できる機能をもっていない。
 しかし、他人の優しさを感じることができるという点で、若さは老齢よりもすぐれているのであろう。九郎は、それを感じつづけた。
 九郎は、歩きつつおもった。倶
(とも)に歩いている秀衡がなにを語り、どうふるまっているかということではなかった。秀衡のしわぶき、息づかい、ゆるゆるとした歩きかた、それらがすべて九郎を包み、九郎は何を語ることもなく、秀衡という老人の優しさを感ずることができた。この優しさは、どうあらわしていいであろう。
(儚い……)
 と、九郎はそう感じ、前方の遠山をまっすぐに見ながら、あやうく涙ぐみそうになった。なぜ儚いのか、わからない。老人の優しさは、いずれ肉体のほろびるかもしれぬ脆さにつながってるのだろうか。それとも、秀衡の、およそ優しみとは無縁の雄偉なからだつきとつながりがあるのかもしれない。このいかにも武人らしい風姿からは、はかないほどの優しみがただよっていることに、九郎はかつて他人から感じたことのない人格的衝撃を受けた。
 毛越寺の壮麗さは、どうであろう。二階楼門の南大門を入ると、堂塔四十余、禅房五百余というおびただしい建物が林間にいらかをならべ、境内の森のなかに人工の大池が碧みをたたえ、朱と黄金でいろどられた船がうかべられている。


毛越寺復元図

浄土庭園を眺めていると、なぜに司馬遼太郎がこのような記述をしたのかが感覚的に理解できるような気がする。
毛越寺は基衡が建立し、秀衡が完成させた。この浄土庭園の穏やかな美しさから、司馬遼太郎は秀衡の人格…潮の満ちるような優しさ…を想像して造形したのではないだろうか。臨床心理学には箱庭療法という手法がある。箱庭の造形からクライアントの心の状態を推し測ったり、治療したるする。そうであれば、この毛越寺庭園には秀衡や基衡の人格が投影されているような気がする。
司馬遼太郎もこの庭園に感銘を受けたのではないだろうか。そして、800年前の秀衡の心をこの庭園から想像した…。

毛越寺浄土庭園を歩けば、かつての司馬遼太郎が見た風景を私達も見ることができる。そして、そして、『義経』のこの場面が、庭園と司馬さんの感性を通じて創作されたということも実感できる。
その意味では、司馬ファンにも、義経ファンにも、とても貴重な場所に思えた。

私見だが、現在の毛越寺もまた、優しい感じがした。入口で拝観券を販売する方も、売店の方も、穏やかで親切な印象を受けた。毛越寺の寺風なのだろうか。それとも浄土庭園を毎日見ていると、自然に優しくなるのだろうか。重里記者も、私もそうなっていたのかも知れない。

4.平泉を歩く

(1)観自在王院

毛越寺に並ぶように、観自在王院跡があり、こちらにも浄土庭園がある。
観自在王院は、二代目・基衡の妻が建立した。基衡の妻は安倍宗任の娘。基衡にとって宗任は祖母の兄(=大伯父)にあたる。
後三年の役の後、宗任は投降し、伊予から筑紫に流された。基衡の妻は恐らく宗任晩年の子だったのだろうが、年上だったではないか。


観自在王院跡
正面より、ひろびろとした風景

見取図
小池平和さんのお話では、毛越寺庭園の池と観自在王院の池、二つで鶴と亀を表しているのではないか、ということだった。


観自在王院・舞鶴が池

(2)柳の御所

北上川の川沿に柳の御所(と伽羅御所)の跡がある。柳の御所は平泉の政庁。陸奥の国府・政庁は一応は多賀城ということになっていたが、藤原清衡が本拠地を平泉に移した後は、ここ柳の御所が、事実上の陸奥の政庁となっていた。
源頼朝の奥州侵攻の際、藤原泰衡は平泉に家来を遣わし、主だった建物を燃やした。柳の御所も灰になる。奥州藤原氏に謎が多いのも、このときにほとんどすべての文書が焼失したためだという。


柳の御所跡
かつての奥州の政治の中心地だった。

柳の御所付近より高館
(義経最期の地)の丘を望む

(3)無量光院

柳の御所から北に向うと、無量光院跡がある。三代・秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して造ったという。現在は水田の中にぽつんと建物の跡と、島の跡が浮かんでいる。すぐ近くには東北本線も走る。時の流れの無情を感じた。
建物の再建はともかく、せめて観自在王院のように、土地だけでも整備して欲しいものだと思う。


無量光院伽藍跡・全景

伽藍・礎石

中島跡
かつてはこの周囲に池が広がっていた

無量光院・想像図

(4)高館

源義経終焉の地。北上川と平泉の町を見下ろす、小高い丘の上に建つ。川が流れを変えたため、義経の時代とは場所が変わっており、江戸時代に伊達氏がこの地に社を建てたという。とはいえ、この丘には義経の思いが今も残っているような気がした。
社の下の資料館には、二体の石像が残っている。蝦夷的というのか、ダイナミックな造形だった。


高館の廟
中には義経の像が安置されている

北上川
高館より北方向(盛岡方面)を見る

 

取材を終えて

二日間の取材だったが、そのうちの一日はレンタサイクルで廻った。平泉は時折霧雨が降る天気だったが、結構蒸し暑く、少し疲れた。だが平泉の見所はタクシーで行くには微妙な間隔であり、さりとて歩いて行けば、結構な道程になる。ママチャリで大の男二人が走るというのも、少し恥ずかしかった(?)が、重里記者も私も「レンタサイクルは正解だった」と思った。
さて、重里記者と私が平泉で気に入った場所がある。「悠久の湯」という町営の日帰り温泉(500円)。大浴場は半円形で屋根も高くて、開放感たっぷり。地元の方で賑わい、なかなか良い雰囲気だった。重里記者も私もすっかり気分は平泉の人になり、二日間ともに入浴した。
もう一つお勧めの場所は「夢館」。前九年・後三年の役から奥州藤原氏滅亡までを綴ったろう人形館だ(高松の平家物語歴史館の平泉版のような感じ)。安倍氏・清原氏・藤原氏・源氏と、奥州の歴史は複雑だが、視覚から歴史を理解することができ、解説もとても参考になった。単なる観光名所以上の価値があり、義経や奥州藤原氏の歴史を知りたい人にはお勧めです。

 

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