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司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『義経』奥州平泉編(上)

平成14年8月28日UP
(取材日平成14年7月6・7日)

奥州平泉編(上) 1.小池平和氏にお話をうかがう
  (1)司馬遼太郎の『義経』への疑問−藤原基成と藤原泰衡−

  (2)平泉における義経の意味
  (3)義経の戦術と奥州

2.中尊寺
奥州平泉編(下) 3.毛越寺
4.平泉を歩く
  (1)観自在王院

  (2)柳の御所
  (3)無量光院
  (4)高館

奥州藤原氏の故地・平泉、義経が育ち、最期の時を迎えた平泉
『義経』取材レポートの最後を飾るのは、奥州平泉です。

義経の動向 〜屋島から平泉まで〜

屋島の戦いで勝利を収め、平家を西海に追い落とした義経。勢いに乗る関東武士団は、ついに平家を周防・壇ノ浦に葬り去る。
しかしながら、梶原景時の義経に対する不利な報告も手伝い、次第に頼朝と義経の確執が深まる。巧みに義経を頼朝から離反させようとする後白河院は、義経に位階を授け、ここに頼朝と義経の対立は決定的になる。
義経は頼朝に釈明しようとするが、容れられず、司馬遼太郎の小説中では、ここで義経が京から落ちるところで終わる。
史実では、この後義経は奥州平泉に逃亡するが、頼朝の圧力を受けた藤原泰衡に攻められ、衣川の館で最期の時を迎える。

 

1.小池平和氏にお話をうかがう

平泉取材に際し、小池平和さんにお話をうかがった。小池氏は毎日新聞社出身。昭和55年に一関に赴任され、以来15年勤務。東北の地、中でも平泉に惹かれ、「本の森」という出版社を起こされ、今も出版・執筆を続けられ、ジャーナリストの観点から歴史を考えられる。

(1)司馬遼太郎の『義経』への疑問−藤原基成と藤原泰衡−

小池さんは司馬遼太郎『義経』における、平泉と義経の関係にいくつかの異なった見方をされた。
まず、藤原秀衡の妻の父・藤原基成。司馬遼太郎『義経』では、基成は都ではそれほど昇進の望めない、いわばうだつの上がらない貴族であり、新天地を求めて平泉に下り娘を秀衡に嫁がせる。平泉においては「都の藤原氏」という血筋がなによりも尊重された。したがって、自らの血の尊さを危うくするような「貴種」は邪魔者以外の何者でもない。源氏の嫡流の血を引く義経もその例外ではなかった。
それゆえ基成は孫の泰衡を義経の間を遠ざけるように仕向ける。
小池さんの考えでは基成は秀衡の政治的顧問の役割を果たしていたし、泰衡と義経の間を疎遠になるように仕向けたとは考えられないということで、むしろ、泰衡と義経は十代後半を共に過ごし、親しかったのではないか、ということだった。
義経が平泉に来た経緯についても、京の義経の養父・藤原長成(常盤が牛若を連れて再嫁した相手)と基成は近い親戚関係にあり、二人の繋がりが義経を平泉に呼び寄せた、という見方だった。

また、泰衡については、一般的には頼朝の圧力に屈して義経を攻めて殺害した。それ故に凡庸な出来の悪い支配者だったと見られがちだが、小池さんは必ずしもそのようには見ていない。義経を守ろうとしたが、力は及ばなかった。だが、彼なりに奥州のために最善を尽くしたのではないか、ということだった。(小池さんは藤原泰衡を主人公にした小説を書いたことがあるということだった。)

(2)平泉における義経の意味

私にとって、藤原秀衡が何ゆえ鞍馬から出奔した義経を引き取り育てたか、そして頼朝に追放された後も匿ったか、ということがわからなかった。藤原清衡の父・経清は源頼義に惨殺された。また、前九年・後三年の役で源氏が関わったことにより、凄まじい程の血が流された。
後三年の役において、源義家が藤原清衡を助け、結果的に奥州藤原氏の成立に導いたという点があっても、総体的に見ると、源氏は奥州にとっては流血の惨事を呼び寄せる存在なのではいか。
いわば、忌むべき相手の嫡流を引き取った…としか私には思えなかった。

だが、奥州対朝廷、奥州対平氏、という点も含めて考えると、源氏との因縁だけでは政策を決められない。より高度な政治的判断の中でのことだったのではないか。小池さんのお話では、義経は一面ではやっかいではあるが、夢を持ってきた存在だった。やり方一つでは朝廷や鎌倉との間もこじれるが、頼朝に対抗し奥州の独立を守るためには源氏の嫡流という貴種が必要、という考え方もあったのではないか、ということだった。いわゆる政治的カードを持とうとしたということらしい。

(3)義経の戦術と奥州

戦術の天才と称される義経。小池さんのお話では、その考え方は奥州で練られたのではないかということだった。
一の谷の合戦で、義経は馬を単なる戦闘の道具としてだけでなく、長距離移動+戦闘という発想で使った。これが奇襲戦の発想は良馬を産出し、かつ豊富な奥州で育ったことから生じている可能性が高い。
また、屋島の合戦では嵐の中、摂津から阿波に渡り、平家の背後をついた。壇ノ浦の合戦でも見事な海戦を演じた。義経は海辺で生活したことはないが、平泉のすぐ側には北上川が流れ、水運も盛んだった。このような地理的状況から、義経はある程度船に慣れ親しんでいた、少なくともまったくの素人ではなかったのではないか、ということだった。

小池さんのお話をうかがうと、史実を基にした「義経」と司馬遼太郎の『義経』との間には、かなりの開きがあるように思えた。小池さんは、長年一関にお住まいで、新聞記者として地元を多々取材されたことだろう。それゆえ平泉に関する造詣も深い。
それに司馬遼太郎が『義経』を書いた後に発見された資料もあると考えられる(『義経』は昭和41〜43年にかけて書かれた)
司馬遼太郎の『義経』は歴史を概観する上でも貴重な小説だが、史実的「義経」を把握しておくことは大切なことなのではないか、と思った。

2.中尊寺

平泉を代表する古刹・中尊寺。建立した藤原清衡は、前九年・後三年の役をくぐりぬけて政権を確立した。長年の戦乱で亡くなった多くの人の菩提を弔う意味もあったのだろうか。
絢爛たる黄金文化・仏教文化を築いた奥州藤原氏。かつては平泉にも華麗な寺院が並んでいたが、その後の戦乱などで、その多くは失われた。
中尊寺もその例外ではないが、その中にあって、金色堂と多数の文化財を守り継いでいる。

管財部の北嶺澄照氏の御厚意により、金色堂と宝物館を見学させていただいた。
以前は義経というと、京の五条大橋の逸話など、知らない人はいなかった。義経は児童向けの本の中でも定番だった。だが、北嶺さんのお話では現在では義経をテーマにした子供向けの本などはほとんど見られないという。時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、今後の歴史離れは深刻になっていくのではないか?


金色堂
鉄筋コンクリートで保護されている

かつての鞘堂(木造)
小池さんのお話では、藤原氏の霊を封印する意図があったのでは、ということだった。

経堂
金色堂と共に、中尊寺に残った数少ない古建築
(かつては二階建だったが、火災で平屋になった)

弁慶堂

ふと思ったが、仙台の瑞鳳殿(伊達政宗の廟堂)は、中尊寺金色堂を意識したのではないだろうか。時代は違えど、共に奥州の王者、系統は異なるが共に藤原氏の血筋…。藤原氏の黄金に対し、伊達政宗は桃山文化の粋で飾ったような気がした。

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