司馬遼太郎を歩く・取材レポート 『義経』奥州歴史編(上) |
平成14年8月18日UP
奥州歴史編(上) | 1.藤原秀郷とその子孫 (藤原氏・秀郷流藤原氏略系図) 2.藤原経清と源氏の関わり 3.陸奥奥六郡の主・安倍氏 |
奥州歴史編(下) | 4.前九年の役 (安倍氏・清原氏・奥州藤原氏関係略系図) 5.後三年の役 6.藤原清衡と源義家の謎 (略年表) |
奥州藤原氏を考える
この取材のテーマは『義経』であり、奥州平泉で義経に関係するのは、藤原秀衡と泰衡の二人、いわゆる奥州藤原氏の後期の人物になる。
しかしながら、平泉で義経を語るには奥州藤原氏は欠かせず、その藤原氏を語るには、その出自から考えなければならない。そこには陸奥と源氏との複雑な歴史関係が浮かび上がる。一般的に奥州藤原氏三代と言われる。初代・清衡、二代・基衡、三代・秀衡。さらに最近では、その次ぎの泰衡を加えて「奥州藤原氏四代」とも言われる。しかしながら、私が興味を持ち、歴史上でも重要な役割を果たすと考えるのは、初代・清衡の父、藤原経清とその妻だ。父は秀郷流藤原氏、母は奥六郡の俘囚の長・安倍頼時の娘だった。武家の名門と北陸の王者…この二つが奥州藤原氏の性格を定めているように思えてならない。
小説『義経』において、司馬遼太郎は奥州藤原氏を「藤原氏を名乗っているが、その祖である経清は関東から流れてきた人物であり、摂関家につながる藤原氏とは関係がない」としている。だが、一般的には経清は藤原秀郷の子孫だとするのが、有力な見方だ。
藤原経清を考えるには、そのルーツを探らなければならない。そこでまず有名な俵藤太・藤原秀郷から考えてみたい。
1.藤原秀郷とその子孫
武家といえば、清和源氏。頼朝が征夷大将軍になったことにより、清和源氏が武家の名門の第一というイメージがある。さらに桓武平氏がそのライバルとして見なされるといったところか。
しかしながら平安末期においては、秀郷流藤原氏も源平に劣らぬ名門と見なされていたようだ。
平安中期頃、東国は陸奥から移された俘囚の反乱、群盗の跳梁などにより治安が悪化していた。ここに優れた軍事力を持つ王臣貴族が派遣された…これが武家の始まりと言われる。その中で藤原氏がやや早く勢力を築いていたようだ。これに続き桓武平氏が勢力を伸ばす。さらに清和源氏が台頭する。藤原秀郷(?〜?)はこのような時代、関東に勢力を伸ばし、平将門(?〜940)の乱(承平の乱、935〜940)を鎮圧した。ここで元々実力を持っていた秀郷流藤原氏の武門としての地位が確立したと言って良いだろう。従四位下、下野守に任ぜられた。秀郷は鎮守府将軍に任ぜられたとも言われ、彼の子孫は一世紀にわたり鎮守府将軍に就いている。一方、この頃清和源氏はようやく源満仲の名が出てくる程度で、特に目だった活躍もしていなかった。
以後、秀郷流藤原氏は有職故実、儀礼や武門の技を伝える名門と見なされる。この後、源氏、平氏が台頭していくが、それでも一定の地位は保っていたようだ。歌人として名高い西行は、秀郷流の武士だった。彼が東国に旅をしたとき、頼朝は武家の故実を教えてくれるよう頼みこみ、西行もそれに応えた、という逸話がある。このことは、秀郷流の地位の高さを示しているのではないだろうか?
奥州藤原氏の他、秀郷流の子孫を名乗るのは、鎌倉武士でいうと、波多野氏、首藤氏等。戦国以降広く知られるようになった武家では九州の大友氏、少弐氏。江戸期に土佐24万石の太守となった山内氏も秀郷流を名乗っている。平安〜鎌倉期においては、秀郷流藤原氏は源平と並ぶ武家の名門であり、むしろ歴史的には先んじていた。
奥州藤原氏の祖・藤原経清もその一人であり、経清自身も従五位下の官位を有していた。藤原経清はトップではないにせよ、かなりの名門の出だったと思われる。
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藤原氏略系図 |
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秀郷流藤原氏系図 |
2.藤原経清と源氏の関わり
平将門の乱の後、恒常的に内乱状態になった関東。さらに平忠常の乱(1028〜1031)で起きる。平忠常は平良文の子孫であり、坂東八平氏の上総氏・千葉氏の祖にあたる。
乱の鎮圧にあたったのが源義信(968〜1048)だった。源氏は東国で力を伸ばし、坂東八平氏や秀郷流藤原氏を配下に収めた。このことが、後の前九年の役・後三年の役につながっていく。
このとき、藤原経清(?〜1062)の父・藤原頼遠もなんらかの形で源義信に関わりがあったと思われる。藤原頼遠は平忠常側の人物だったかも知れないし、あるいはこのときに源義信に臣従したことも考えられる。前九年の役の当時、藤原経清は陸奥・亘理郡(現在の宮城県南部海岸沿い地)の郡司をつとめていた。経清自身が朝廷の役人として下向したともいわれる。
私見ではあるが、藤原経清家が亘理の郡司を務めていた、ということは関東に地盤をおいた武士が東北南部までは勢力を伸ばしつつあったということを示しているように思う。
当時朝廷の力は衣川以南(岩手県南部、一関市の少し北)まで延びており、陸奥における本拠地は多賀城(現在の仙台市近郊)だった。東国武士というと関東地方という印象があるが、白河の関を越えて、多賀城付近(現在の宮城県、西は山形県あたり)まで進出していたということになるのではないか。
3.陸奥奥六郡の主・安倍氏
古来朝廷は近畿地方から東へと勢力を伸ばしてきた。ヤマトタケルノミコトの故事以来、関東、南東北へと進み、最後に対した最大の勢力が東北北部の蝦夷と呼ばれる人々だった。
アテルイ(?〜802)の乱(アテルイの側からすれば朝廷の侵攻に対する防衛だったのだろうが…)により坂上田村麻呂(758〜811)が征夷大将軍として派遣される。苦戦の末、田村麻呂は有利な条件でアテルイと和議を結ぶ。田村麻呂はアテルイを助命するつもりだったが、朝廷はその勢力を恐れ、殺害した。
ここで、一応の政治・軍事的決着は着き、坂上田村麻呂は奥六郡に胆沢城を築く。坂上田村麻呂の東征で朝廷は奥六郡を支配化に収めたように見えたが、すぐに蝦夷側は勢力を回復し、俘囚(朝廷の支配を受け入れた蝦夷)の長・安倍氏が台頭する。アテルイの時代は各部族の寄せ集めで、蝦夷は決して組織化されていなかった。しかし安倍氏は朝廷と接触することにより、蝦夷勢力の組織化に成功したと思われる。そのことにより、より強大な勢力を築くことになった。
安倍氏だが、名称は安倍を名乗っているが、蝦夷の系統であり、朝廷との接触(恐らく朝廷の安倍氏が下向し、それと接触)によりその姓を取り入れたと思われる。あるいは、朝廷の安倍氏自体が、その始まりからして蝦夷と強い関わりがあったという説もある。
さて、ここで必然的に蝦夷とアイヌとの関わりについての疑問が生じる。蝦夷はいわゆる弥生・縄文の混血である日本人であったのか、それともアイヌ民族であったのか?
結論は出ていないが、中尊寺金色堂に残されている奥州藤原氏三代の遺体の検証の結果では、アイヌ民族を示す結果は出ていない。初代清衡の父・経清は藤原氏の流れであり、アイヌとは関わりがないが、清衡の母は安倍氏の出であり、三代・秀衡の母も安倍氏の出だった。秀衡においては、二代にわたって、安倍氏の血が入っていることになる。安倍氏は俘囚の長であり、奥六郡の家系である。この結果からすれば、蝦夷=アイヌという方程式は成り立ち難い。一方、現在の青森・岩手・秋田にはアイヌ語の地名が多く残り、秋田のマタギの言葉にはアイヌ語の単語が多く残っている。このことは、東北北部にはやはりアイヌの文化的要素が色濃く残っている(=アイヌ民族が多くいた)ことを示しているのではないか。
蝦夷とアイヌとの関わりは明確ではないが、蝦夷とは、人種的な概念よりも、朝廷の支配に従わない辺境の人々という、文化的な概念の方が強いということになると思う。