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司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『義経』総集編

平成14年8月28日UP

総集編 1.源頼朝の奥州侵攻と力の均衡
  (1)奥州藤原氏−奇跡の政権−

  (2)奥州侵攻
2.義経を考える

1.源頼朝と奥州侵攻と力の均衡

(1)奥州藤原氏−奇跡の政権−

最期に、奥州藤原氏、義経、頼朝という三者を再考してみよう。

奥州藤原氏の系譜を考えるとき、その最大の特徴は秀郷流藤原氏という武家の名門の血と、奥六郡(というよりも陸奥)の俘囚王・安部氏の血を引くということだろう。
考え方によっては、坂東からさらに奥州の南まで勢力を拡大しつつあった武士の勢力と、朝廷の組織を取り入れ、強大になった蝦夷がぶつかり、せめぎあい、融合して誕生した奇跡の政権なのではないか。源氏の介入というのもよく考えれば藤原清衡などと同じく坂東武士の北進とも考えられる。

さらに奇跡の政権誕生には、経清が藤原氏の出だったということも影響しているのではないか。源氏は頼信、頼義、義家、為義、義朝、頼朝と、代々嫡流が強い権威を持つ。一方、平氏も平将門の乱の後、国家流と良文流(坂東八平氏)に分裂したとはいえ、国香流は伊勢平氏として、武家の棟梁の地位を築き、清盛の平家政権につながる。
一方秀郷流藤原氏は、武家の名門とされながらも、一門を束ねるような強力なリーダーシップを持つ家柄は出ていない。藤原氏の嫡流と目されるのは藤原流足利氏(尊氏などを出した清和源氏足利氏とは全くの別流)や小山氏。北関東の大領主で有力な武士団ではあるが、源義家や平清盛と比べれば、その存在の意味合いは大きく違う。
経清が源平の人間であれば、それぞれの一門の棟梁を通じて、朝廷との結びつきが強まり、独立性を維持するのは難しいかっただろう。秀郷流藤原氏の出であるからこそ、敬意を受けつつ、京から一定の距離を置くことができたのではないか。

(2)奥州侵攻

源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたのは、義経を匿ったためという理由だった。しかしながら、義経の件は、単なるいいがかりに過ぎなかった。仮に義経を迎えずとも、頼朝は遅かれ早かれ、奥州を滅ぼしたに違いない。
源氏にとっては奥州は「宿願の地」「意趣残る地」。前九年の役において源頼義は安部氏を滅ぼしたものの、陸奥守を解任された。後三年の役では、源義家は清原氏の内訌に介入。清原家衡を滅ぼしながら、私闘と見なされ、朝廷より恩賞は出なかった。奥州を実質的に支配化に収める機会が2回もありながら、源氏の台頭を嫌う朝廷により妨害された。
平氏が滅んだ時点で、障害もなくなり、朝廷ももはや頼朝を抑える力は無い。奥州藤原氏は関東を基盤に武家政権を作ろうとする頼朝には、目障りな勢力だったと思われる。

一方、平泉は源平の合戦をどのように思っていたのだろうか。藤原秀衡は、まさか頼朝があれ程の短期間のうちに平氏を滅ぼし、政権を打ち立てるとは思わなかったのだろう。平氏に肩入れすることなく、また源氏に協力して危ない橋を渡ることもない…一方に肩入れすれば、必ずや戦乱に巻き込まれ、奥州の独立(状態)と安定を損なう可能性がある。

素人の考え方だが、まだ頼朝の勢力が小さいうちに、平氏と挟み撃ちすることはできなかったのだろうか。手を組む相手としては、源氏よりも平氏の方が良いはずだが、このような考え方は、その後の歴史の流れがわかっているから、出てくるのかも知れない。義経が頼朝の軍を率い、それに佐藤兄弟も加わっている以上、傍観せざるを得なかったのだろうか。それとも、奥州政権が源義家の働きにより成立したという「恩」が、秀衡の心の中にあったのだろうか。

義経が平泉を出たとき、秀衡は平泉の軍は同行させなかったが、佐藤兄弟を付けた。政権の長として、政治的には中立を保つが、個人的な部分ではたとえわずかであろうと手助けしてやりたい…義経に対する態度はそのようなものではなかったか。

奥州藤原氏を思うとき、私達はだれしも「頼朝に滅ぼされず、そのまま事実上の独立状態が続いていたら…」と思うのではないか。
秀衡は、その死に臨んで、「義経に国を譲り、国衡・泰衡が盛りたてていくように」といった旨の言葉を残したという。この言葉にはいろいろな解釈があり、頼朝との戦いを想定して、義経を軍事的トップに据えようとした、という意味であるとも言われる。どちらにせよ、義経の軍事的才能にかけたのだろう。

だが、平泉の自主独立、ということを考えると、皮肉にも義経がその灯を消してしまったのではないか。源平の戦の中でも、屋島の合戦は、双方の行く末を決めた。平氏の落日はまた、奥州藤原氏の落日でもあったのだと思う。平氏が西国で踏ん張り、木曾義仲がいて、はじめて勢力の均衡が取れて、平泉の独立があったと思う。最低限でも平氏の存在は必要だった。
屋島の合戦を制し、平氏を滅亡に追い込んだのは、他ならぬ奥州で育った義経。その義経を庇って死んだ佐藤継信は、奥州藤原氏の郎党。そう思うと、歴史は皮肉としか言いようがない。

2.義経を考える

さて、それでは司馬遼太郎が創造した義経像はどのようなものだったのだろうか。従来の判官びいきの見方とは逆方向から見た人物が見られる。その人物造形の伏線は、誕生間もない頃から見られる。

牛若が6歳のときに、長成と常盤の間に子が生まれる。牛若は弟に母の愛を奪われたかのように感じ、嫉妬する。

牛若には異常さがあった.異常なほどに肉親の盲愛を欲しがる性格で、できれば二六時中常盤の肌に自分を密着させて暮らしていたかった。常盤はそうしてやるべきであった。そうしてやれば牛若の心に人並な平衡感覚も育ち、野生も消せ、やがて平凡な大人になり、僧になり、日本歴史はかれの居ないことで別なものになったかもしれない。

司馬遼太郎はこの義経に独自の人格を付与しているが、この幼児期にすでにその伏線が描かれている。すなわち、愛情を欲しがるということ。幼い頃それが満たされなかったがために、後の英雄・義経が誕生したということ。さらに英雄といいつつも、人並みな平衡感覚がないということである。ある意味では精神分析的な解釈だ。
なにかが欠落したが故に、それが反作用を起こして異常な力を発揮する…司馬遼太郎が描く義経像の伏線がここにあらわれているようだ。さらに政治感覚の無さとは、幼児性の現れではないだろうか。
さらに奥州平泉でも藤原秀衡は義経に対してこのような感慨を抱く。

「九郎殿は、うまれつき、なにか欠けている」
 と、藤原秀衡は、そう見ていた。その欠陥は、現実感覚のとぼしさ、といえるかもしれない。
 このところ武士にならたれでも持っている損得の利害感覚が、まるでないのである。
(これで、世に立てるのか)
 とさえ思い、秀衡は心配になった。たとえば、「所領をさしあげようか」といっても、要らない、というのである。
「すこし、利欲の心をおもちなされ。山のわらびと同様、あくがほどほどに強くなければ男はたのもしゅうない」
 とまでいったが、その言葉そのものが、この若者には理解しかねるようであった。しかしこれは長所でもあろう。そのかぼそさがあればこそ、秀衡自身、欲得をわすれ、
(自分が構ってやらねばどうにもならぬ)
 という思いに駆りたてられて、他所目には異常なほど肩入れしてしまっている根
(もと)になっていた。

義経は奥州を出て、旗挙げした頼朝の元に赴く。一見感動の対面を果たしたかに見えた二人だったが、頼朝はすぐに義経を疎んじはじめる。一つは、義経が頼朝の弟ということで、源家の御曹司という意識を持ちすぎたためだ。本来存在基盤が弱い頼朝が関東武士団を統御していったのは、源氏の嫡流という存在からだが、義経が割り込めば、その統制もままならなくなる。
もう一つは、奥州藤原氏という強大な勢力がその背後に鎮座しているからだった。藤原秀衡を味方につけるために義経を使えば、義経の存在も大きくなり、奥州藤原氏の発言力も大きくなる。そこで頼朝は義経になにも関わらないという態度を取る。

 その底意をつくらぬくために、なんとこの義経とういう弟は、頼朝にとってつごうのいい性格であろう。およそ政治感覚がなく、自分がどういう政治的存在かということすら知ってはいないのである。
 その点、そばで弁慶がいらいらするほどであった。きのうも義経の袖をとり、
「奥州へ佐藤兄弟のどちらかを遣わしめたまえ」
 と、そっとすすめた。
「なぜだ」
 このもう、天才といっていいほどの政治的痴呆者は、弁慶の顔をふしぎそうに見まもり、童子のように首をかしげてたずねるのである。
(この程度の意味さえ、わからないのか)
 弁慶は力がぬけてゆくのを感じたし、同時にそれしもわからぬところが、この御曹司の魅力であるともいえた。
 ――あなたは、いまこそ奥州を背景とすべきです。
 弁慶はそう言いたかったが、あやうく言葉をのみこんだ。

藤原秀衡にとって、源氏の嫡流である義経は政治的カードであり、義経にとっても奥州藤原氏は切り札になりえた存在だったはずだ。だが、秀衡は中立を貫き、そのカードを使い得なかった。同時に義経も切り札を肝心な時期(=頼朝が平氏追討の合戦を行う直前)に使えなかった。このあたりは秀衡、義経ともに中途半端なような気がする。
頼朝を敵とするか、味方とするか、はっきりと方向性を持つべきではなかったか。敵にするなら秀衡は平氏と組むべきだし、味方にするなら義経と一体化して頼朝への影響力を強めるべきだったのではないか。

頼朝の立場からすれば、義経は藤原秀衡の庇護を受けていたということで、旗挙げ当事はその援助を期待する面もあったかも知れない。だが、富士川の合戦を乗り切り、坂東武士団の政治的総帥になると、かえって邪魔な存在・不気味な存在だったのではないだろうか。義経−奥州藤原氏のラインが下手に頼朝政権に食い込めば、政権の基盤がぐらつき、平家追討どころではなくなる。
そう考えれば、義経も奥州藤原氏を背景として自らの発言力を強めて頼朝に対抗するか、あるいは奥州との関係を絶ち切って、鎌倉政権の中の存在に成りきるか、どうちらかにすべきだったのではないだろうか。このあたり、中途半端な印象が拭えないが、義経にはそこまで考える政治的感覚がなかったのだろう。

義経はその軍事的才能を買われて、一の谷、屋島、壇ノ浦と平氏を追い詰め、ついには滅ぼす。後白河院の思惑もあって、頼朝の許可を得ずに朝廷の官位を受ける。頼朝にとっては自らの政権をゆるがしかねない事態であり、義経が鎌倉に戻ることを赦さない。
義経は相模に入り、兄頼朝に赦しを乞うため、鎌倉に近い腰越から名高い「腰越状」を送る。

 読み終わると頼朝は、
「咄
(とつ)
 と、小さく舌を打った。
「まだあの男は、わかっていない」
 というのである。この書状の終わりのほうに義経は自分の任官のことについて触れている。それを指している。その文章はいささかも任官のことを詫びておらず、詫びるどころか、
「義経が五位ノ尉に補任されたことは当家の面目である。源家に類のない重職であり、これ以上のことがあろうか」
 と言い、頼朝としてはむしろよろこぶべきであるという意味を言外にふくめている。
 ――わららぬ。ついにわからぬ。
 と頼朝は叫びたかったであろう。ここまで基本理念が異なる以上、一族でも同志でもなく、もはや追放するか、殺すか、どちらかでなければならぬであろう。

思えば、義経は京で生まれ、鞍馬寺という閉鎖的で独特の社会の中で少年期を送り、奥州で成人した。考え方も、論理もまったく異なる関東武士団とはまったく接点がない。政治的感覚の欠落という以上に、始めから無理な話だったのかも知れない。
政治的な論理を貫く兄と、血の論理しか理解できない弟――二人は大人と子供であり、最期まで平行線をたどった。
源頼朝という人物は、を考えるとき、三者ともに歴史の転換点に現れ、その後に続く時代の政府を作り君臨した。一見猛々しくはないが、氷のような冷静さで、政治的論理を貫き、時に非情とも思える判断を下した。私には頼朝が徳川家康や大久保利通に重なって見える。

判官贔屓、日本の初のヒーローとは、軍事的才能と、この子供のような純粋な人格の結合であったのかも知れない。だが、物事には常に光と影がある。この長所の影こそが、「政治的感覚の欠落」という、義経のような立場の人間には救いようのない欠点だった。
司馬遼太郎は、従来とは異なった義経像を描いた。だが、これはヒーローとしての義経を逆の方向から眺めた姿だったのかも知れない。
司馬遼太郎の義経への厳しい評価は、実はいかに義経に魅力があり、愛されてきたか、ということの裏返しのようにも思える。

日本の歴史上稀とも言える特異な才能を持ちながら、現実感覚が希薄だった(特定の感覚が欠落している)ために没落するという点で、司馬遼太郎が描く義経は『歳月』の江藤新平を思わせる。
司馬さんの小説の代表的主人公は坂本竜馬や秋山兄弟、河井継之助等だ思うが、義経や江藤新平はまた別の系統の主人公たちであり、彼らを通して皮相とも言える視点から、歴史を捉えていたのではないだろうか。

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