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司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『義経』屋島編(上)

平成14年8月3日UP
(取材日:平成14年6月23日)

 

源平合戦の古戦場として名高い四国讃岐・屋島。
「高松平家物語歴史館」を見学し、屋島を歩きました。

尚、当ページにおける「ろう人形」の写真は、高松平家物語歴史館様の御厚意により撮影・掲載させていただきました。取材に際しても大変お世話になり、心から御礼を申し上げます。

 

屋島編(上) 1.高松平家物語歴史館
2.津森明先生にお話をうかがう
  
―義経と讃岐、司馬遼太郎の歴史の見方―
3・屋島寺
屋島編(下) 4.佐藤継信
5・屋島の合戦

義経の動向 〜鞍馬から屋島まで〜

源義朝の子・である義経。鞍馬を出奔し、奥州平泉で成人する。やがて兄・頼朝の旗挙げを聞き、参陣する。
源家の嫡子としての立場を強調し、関東武士団を統制する頼朝と、政治感覚に疎く肉親としての頼朝しか見えない義経。次第に二人の意識にずれが生じる。
一方頼朝にとっては従兄弟にあたる木曽義仲が挙兵、京に入り、平家は退却する。頼朝は義仲、平家を追討すべく義経を送る。
木曽義仲は、容易に退けることができたが、平家は西国に大きな勢力を維持し、一の谷を本拠地に福原(神戸)まで勢力範囲を回復していた。義経は難攻不落と思われた一の谷を鵯越で背後の崖の上から急襲。平家を海に退ける。
平家は四国の屋島(香川県高松市近郊)に前線基地を移し、義経は嵐の中、阿波に渡り屋島に姿を表す。ここに源平の浮沈を握る屋島の戦いが始まる。

 

1.高松平家物語歴史館

屋島の取材に際し、高松平家物語歴史館を見学した。平成4年に開館し、田坂博定会長のお話では、平家物語をテーマにした蝋人形館という点が特色だということだった。田坂会長のご好意で館内を見学させていただいた。

さて、平家物語の展示は17の場面に分けて展示されている。平家の勃興から全盛期、やがて源頼朝を中心にした坂東武士団の旗挙げにより、滅びていく様子がポイントを絞って展示されている。
展示は歴史館の2階全フロアーが使用されているが、まず目に飛び込んでくるのが、一の谷の合戦の様子。階段部分に隣接した部分を吹きぬけとして、その高さを最大限に利用して崖を駆け下りるシーンが再現されている。その迫力久には圧倒されるばかりだ。


一の谷の合戦
先頭右が義経、その左の僧形の武者は弁慶だろうか。
その後ろは三浦勢だろうか?
一の谷の背後の崖は三浦の馬場を考えればたいしたことはない、と豪語した佐原義連
その兄で三浦一族の総帥・三浦義澄か?

那須与一(屋島の合戦)

平家打倒を計画し島流しになり、一人だけ赦されずに島に残された僧・俊寛の様子は一際印象的であり、屋島から壇ノ浦の合戦にかけては大きなスペースを取って連続して描かれる。この場面を見ると、やはり平家物語は滅びの美学なのだと思う。あれだけ華やかで権勢を誇った平家が滅んびゆくその姿。高い文化を持ち、風流を解した一族だけに、その滅びの姿は悲壮であり、また美しい…。
壇ノ浦の合戦での平教経の壮絶な最期、安徳天皇の入水のシーンでは、物語の中に引き込まれ、思わず涙しそうになってしまった。


能登守平教経、壇ノ浦で入水

琵琶法師ロボット

展示の最後を飾るのが琵琶法師。精巧にできたロボットが歌い、語る。田坂会長のお話では、この琵琶法師ロボットの維持・補修には、他の蝋人形とは段違いの力を注いでいるらしい。まさしく、この法師が高松平家物語歴史館の”至宝”ということらしい。

2階には永井路子氏の「平家物語の女たち」のパネル展示もある。東国武士団を中心に、歴史に深い造詣を誇る永井氏の展示。来館された方は、是非見ていただきたいと思う。

高松平家物語歴史館の1階には四国の偉人たちの展示がある。

政治家、文学者、スポーツ、芸能など各分野の人物が等身大で復元されている。吉田茂は、写真での印象では恰幅が良いが、実際にはそれほど背丈はなく、イメージで大きく見えていたのか、と思った。
司馬遼太郎に関係のある人物達もいる。正岡子規、秋山真之、坂本竜馬など。空海も復元(?)されていた。

個人的に興味を持ったのが、徳島に没したポルトガルの文人・モラエス。ラフカディオ・ハーンにも勝るとも劣らない筆致で日本を海外に紹介した。故・新田次郎の小説『孤愁−サウダーデ』の主人公としても知られる。司馬遼太郎も実は新田次郎を尊敬していたのではないか、と思う。
司馬遼太郎は正岡子規の写生文に傾倒し、新田次郎はモラエスのサウダーデに圧倒された。二人の作家の相違と共通点が同時にわかるような気もする。


坂本竜馬

正岡子規

モラエス

2.津森明先生にお話をうかがう ―義経と讃岐、司馬遼太郎の歴史の見方―

高松平家物語歴史館の1階で、高松短期大学教授の津森明先生にお話をうかがった。
津森明先生は四国新聞社の記者を務められ、現在は高松短期大学の教授を務めていらっしゃる。
また、同じく作家の永井路子氏とも親交があり、永井氏からもしばしば質問を受けるという。

津森先生のお話では、義経の愛妾・静御前とその母親、磯の禅師は讃岐の出身だという。
義経が京から逃れた後、静が鎌倉に連れてこられた話は有名だ。鶴岡八幡宮で歌い舞ったが、その内容が義経を慕うものだったために、頼朝は激怒、政子が「愛する人を思う気持ちは私も同じ」と静をかばい、静は赦された。
鎌倉で静は義経の子を出産するが、男児であったために殺された。その後の静の動向は不明だが、ここ讃岐の伝承では、静と磯の禅師は故郷に戻った。静が鼓を捨てたという「鼓が淵」という土地や、磯の禅師の墓もあるという。
津森先生のお話では、このような関わりもあって、義経はとりわけ讃岐では親近感を持たれているという。静への同情が、義経にも移り、オーバーラップしているという。
実は私は高松の人は義経に対してあまり好意的ではないという話を聞いたことがある。屋島の戦いに際し、義経が古高松村(現在の屋島の南)の民家を焼いたためだという。この点を先生にうかがってみたが、当時の屋島近郊の人口は少なく、焼かれたとしてもごくわずかであり、その点で特に後世、義経が地元の恨みを買っているということはない、ということだった。

津森先生は生前の司馬遼太郎にも会われたことがあるという。昭和59年のこと、司馬氏の自宅で空海のことについて司馬氏から尋ねられたということで、このことからも津森先生が四国、特に讃岐地方の歴史に詳しいということがわかると思う。
津森先生のお話では、空海は、かつては密教の祖ということで、どこか胡散臭いイメージが持たれがちだったというが、司馬遼太郎が『空海の風景』を書いたことにより、現在の空海像(日本を代表する宗教家、思想家)が一般に持たれるようになった、とおっしゃっていた。

津森先生は司馬遼太郎に会ったとき、大変印象的な話を聞いたという。司馬遼太郎は例えば『空海の風景』を書くときに、「現在から過去を見るという姿勢ではなく、1200年前に自分が生きていたという気持ちになって書いた」という。その時代に実際に生きていた気持ちになる。過去の風景を思い浮かべながら、すぐ近くの角から小説の登場人物がふと出てくるような…そんな感覚を持って書いていた、という。地名にしても、例えば東京(トウキョウ)は明治初期は、現在と同じ名称であったが、トウケイと発音していたという。そのトウケイという音で当時の人々が発音していたという実感をもたねば、明治の東京は理解できない、といったことも司馬遼太郎は言っていたそうだ。
津森先生も司馬遼太郎から歴史に対する考え方を教えてもらった、という。

司馬作品が人気があるのは、登場人物に血が通い、読者がその息吹を感じるような人間味、親近感を感じる、という点は否めないと思う。その創作姿勢がこの言葉に表れているような気がする。だが、その時代に自らを置く、ということは、言うは易しいが、実際には豊富な知識と想像力がなければ難しいのではないかと思った。

司馬遼太郎は義経について、政治感覚に欠けた人物として、かなり厳しい評価を下し、痴呆とまで表現している。司馬遼太郎の『義経』の意義は、従来のヒーロー伝説、判官贔屓に捕らわれない、現実的に把握した義経像の構築にあると思う。
津森先生は司馬遼太郎に好意的であり、歴史に対する考えを教わったとしながらも、義経に対しては違った考え方をお持ちだ。先生は、義経は人は良いが、政治音痴では決してなかったと話されていた。義経と頼朝の間が決定的に悪くなったのは、義経が頼朝の許可を得ずに後白河院(=朝廷)から位をもらったことによる。この点についても津森先生は、義経は政治的にはまずいということがわかっていたが、院からの贈位だったので、断りきれなかったのではないか、とおっしゃっていた。
津森先生は、史実を踏まえた上での、良い意味での義経ファンといった感じがした。

3.屋島寺

源平の合戦の地として名高い屋島。この結線で平氏の敗色が濃厚になったと言っても過言ではない。屋島とその麓に広がる檀ノ浦を歩いた。(下関近郊、平家が滅んだ海は「壇ノ浦」、檀の字が違います)
高松中心街から東に向う。賑やかな街並みを過ぎると、海岸線に台地のような、上部が平坦な半島が広がってくる。ここが屋島。
屋島は、現在は陸続きになり、半島状になっているが、かつては完全な島だった。干潮時にのみ、水につかりながらも渡ることができる土地で、江戸時代以降の干拓により現在の姿になった。

コトデンのケーブルカーで屋島の頂上へと向う。山上駅は濃厚にレトロな雰囲気を保っている。現在は屋島の山上へは車で上る人が多いのだろう。かつての賑わいを偲ばせるような凝ったつくりの建物だった。

屋島山上は鬱蒼とした森で覆われている。10分ほど静かな道を歩くと、屋島寺へ。高名な鑑真和尚によって建立された。屋島の上部は北嶺と南嶺にわかれており、屋島門をくぐると、突然ににぎやかになる。参拝客、お遍路さん、観光客と、静謐な屋島の中で、この一画だけが人口密度が高い。重里記者もあまりの差に驚いている。屋島の観光はあまり思わしくないようだが、屋島寺だけは関係ない。宗教の力は偉大なのか。
境内には宝物館もある。仏像などの他、源平合戦の遺物が残されており、屋島を見守ってきた寺の歴史を感じた。奥には庭園もある。

屋島寺のすぐ横には「血の池」という小さな池があった。源氏の武者が合戦の跡、刀を洗い、池が血で赤く染まったそうだ。


屋島寺

血の池

血の池の脇をぬけて進むと、談古嶺へ。屋島山上のちょうど東側の縁にあたり、源平古戦場跡(檀ノ浦)が一望できる。


檀ノ浦の古戦場一帯(談古嶺より撮影)
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