「司馬遼太郎を歩く」へ戻る 『義経』取材レポート
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『司馬遼太郎を歩く』 取材レポート

『義経』

 

三回目を迎えた毎日新聞連載『司馬遼太郎を歩く』の取材レポート。
今回取り上げるのは『義経』。
鞍馬(京都)、屋島(高松)そして奥州平泉(岩手)と義経の足跡を追いかけました。

 

『義経』について

数ある司馬遼太郎の小説の中で『義経』を読んだことのある人はあまりいないのではないだろうか?
司馬遼太郎といえば、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『翔ぶが如く』を代表とする幕末〜明治もの、『国盗り物語』『新史太閤記』などの戦国ものの印象が強い。有名作で例外を求めれば、奈良時代に題材を取った『空海』ぐらいではないだろうか。
この『義経』は平安末期を舞台としており、司馬作品としては特異な存在かつそれほど知られていない作品ではある。

しかしながら『義経』を読むと、幾つかの点で非常に興味深い。
まず、その特異な歴史背景だろう。平安末期〜鎌倉初期という時代は、古代から中世に移り変わった、日本史上有数の大変革の時代だった。この変革に匹敵するのは明治維新ぐらいではないだろうか。
だが、その変革も、非常に曖昧で矛盾を含みながら進行する。東国の鎌倉幕府では封建制が始まりながら、近畿以西では朝廷が力を保持し、古代以来の伝統的な社会がかなりの強さで残っていた。さらに奥州では藤原氏が平泉を中心に事実上の独立国を作り上げていた。

義経は、京(西国)に生まれ育ち、奥州で成人。長じて兄頼朝の平家討伐に参加し平家を滅ぼす。しかし後白河院より位を得たことにより東国政権と対立、奥州に逃れ、最後は責め滅ぼされる。いわば、変革期の日本のそれぞれ特徴ある三つの地域を渡り歩き、日本史史上に大きな影響を及ぼして行ったとも言える。しかも源氏の嫡流であった源義朝の子という特異な血流である。

この『義経』を通じて、私達は日本史の中でも特殊とも言える平安末期の日本を知ることができるのではないだろうか。

 

司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『義経』鞍馬編

平成14年7月27日UP
(取材日:平成14年6月22日)

鞍馬編 1.鞍馬へ
2.義経供養塔(東光坊跡)
3.木の根道
4.僧正ヶ谷

 


鞍馬MAP

1.鞍馬へ

京都市街の北に位置する出町柳。ここから叡山電鉄に乗車すること30分、景色は住宅街から山々の中に入り、やがて鞍馬駅に着く。洛北の山間に開けた隠れ里といった雰囲気がする。
鞍馬寺は770年に鑑真の高弟鑑禎が毘沙門天を祀って創建したのがはじまりと言われる。

源義経は、源氏の嫡流・源義朝と常盤の間に生まれた。常盤は京の千人の女から選ばれた、絶世の美女だった。源義朝が平治の乱で敗れた後、平清盛の寵愛を受け、後に藤原長成のもとに嫁ぐ。
義経は7歳になると僧侶になるべく鞍馬寺にあずけられ、以後16歳前後まで生活していた。ここを訪ねれば、義経の少年時代、すなわち原型のようなものが感じ取れるかも知れない。

駅を出ると大きな仁王門が見える。かなり大きな門で、寺の威容が感じられる。
小説の中で、司馬遼太郎は源氏の御家人、鎌田正近が義経を探し求めて鞍馬寺を訪れる場面でもこの仁王門を描写している。鎌田正近は源氏の没落の後、在野の聖となり日々を送っていた。


仁王門

由岐神社

 

麓に、この巨刹の繁華を象徴するかのように二層の大楼門がそびえている。
(なんと。――)
 と、正近はその山門を見あげ、威圧される思いがした。この山門のむこうは九十九折で有名な石段が山上の本堂までつづき、その間、無数の坊や院が山腹のあちこちに点在して山そのものが宗教都市の観をなしている。正近には、この山は威厳がありすぎた。

……司馬遼太郎もやはりこの門の威容を強く感じたのだろうか?

通りぬけると坂道になり、緑の中を登ると由岐神社に出る。神社の前に門のような二階の建物がある。斜面に建てられているため、その一階部分を上りながら抜けるようになっている。通りぬけるとちょうど二階部分の高さになっている。

2.義経供養塔(東光坊跡)

由岐神社を抜けるとやがて源義経供養塔に出る。実はここが義経が暮らしていた東光坊跡といわれる。山の斜面に位置し、坂道から石段を登った少し高い場所にある。意外に面積は狭いが…昔はもっと広い敷地だったのだろうか?
義経は東光坊に住む阿闍梨・蓮忍にあずけられたが、司馬遼太郎は小説の中では、蓮忍は高齢のため、禅林坊に住む弟子の覚日にあずけた、としている。義経は実際にこの場所(東光坊跡)で生活していたのだろうか?


東光坊跡

義経供養塔

義経(遮那王丸)の母・常盤は藤原長成に再嫁し、義経も長成の子となっていた。だが長成は藤原氏の出とは言え、うだつのあがらない官人で経済力も社会的身分も高くはない。同じ禅林坊にあずけられた他の平氏や藤原摂関家出身の稚児に比べれば低く見られ、寺での出世も限界があった。

義経供養塔の前を過ぎると、いよいよ九十九折りになる。じぐざくに長い石段が続く。小説では禅林坊はこの九十九折の途中(あるいは上)にあるように書かれているようだが、現在では鞍馬の山を飾った数々の坊はなくなっていて、自然のふところに抱かれているような気がする。
小説中では、鎌田正近は義経(鞍馬にいた当時は遮那王と呼ばれていた)を探し求めて禅林坊まで何度もこの九十九折を往復したと書かれている。

 遮那王のいる禅林坊は山腹にあった。山麓の仁王門をくぐって禅林坊までのあいだは、一条の坂がつづいている。坂は葛籠の組み目のようにまがり、坂は山頂までたれが数えたか九十九の曲がり角があるという「近くて遠きもの、鞍馬の九十九折り」という言葉が清少納言の「枕草子」にもある。両側はのしかかるような杉木立である。

九十九折りが終わると、本堂に出る。中を拝観する。結構若い人もきている。ラフな格好の人も多いが、結構真面目な感じの人が多かった。やはりわざわざ鞍馬寺にくるということだから、若くともそれなりの雰囲気を持つ人が集まってきているのかも知れない。
金堂の敷地は石垣の上に築かれている。下から見ると、その石垣はかなり大掛かりで城郭のようでもあった。本堂の前からは山麓が一望できる。九十九折はかなり長い石段だったが、緑の中、涼しい風が吹いてきて、意外と暑さは感じなかった。


冬柏亭(とうはくてい)
金堂の奥には歌人・与謝野晶子の書斎が移設されています

3.木の根道

本堂からさらに奥に進む。山道といった感じになり、坂も険しさを増す。やがて「牛若丸息つぎの水」がある。義経は剣術修行のため、東光坊から鞍馬の山中に毎日通った。その途中で喉を潤したというが…水は枯れていた。

息つぎの水を過ぎると、「義経公背比石」がある。義経は後に鞍馬を出奔、奥州平泉へと走るが、そのとき、自分の背丈と比べた石だという。120cmぐらいの石碑があるが、その奥に柵で囲まれた別の石がある。どうもこちらが「背比石」のようだが…。いずれにしても義経は非常に小柄だったようだ。せいぜい140cm程度だったのではないか? だが、現代の目から見て小柄だったということで、平安末期の日本人の平均身長はもっと低かったはず(恐らく150cm代? 奥州平泉の藤原氏、2代目基衡や3代目秀衡は栄養状態はかなり良かったはずだが、せいぜい160cm前後だったという)。当時としては「やや小柄」程度だったのかも知れない。
あるいは…義経が鞍馬を出たのは16歳くらいだったという。この後少しは身長も伸びたかも知れない。いずれにせよ小柄で貴族的な容貌だったのではないだろうか?


牛若丸息つぎの水

背比石
(柵の中)

「背比石」の先、道が二つに分かれている。左手の道を少し進むと木の根が地面に露出している。ここが「木の根道」。義経が剣術修行をしたとされる場所だ。地面のすぐ下まで地盤の岩が迫っているため、根が地中に潜ることができず、露出しているらしい。
確かに足場は非常に悪い。この場所で剣術修行をすれば、自然に足腰も鍛えられ、身のこなしも敏捷になるはずだ。壇ノ浦での「八艘飛び」は伝説かも知れないが、義経の身軽さが十分に想像できる。

木の根道

4.僧正ヶ谷

さて、背比石まで戻り、右手の道を進む。こちらは下り道になる。5分程歩くと「僧正ヶ谷」へ。山の中の谷間といった風景で少し広めの平地の中に不動堂があるが、木立に囲まれ、昼尚薄暗い。
鞍馬の中でも神秘的な場所に感じられる。伝承の世界に足を踏み入れたような気がする。

かつて、鞍馬は一大宗教都市だった。仁王門から金堂にかけてが都市をなしていたが、金堂の先は後背地、山の中となり殆ど居住施設などもなかったに違いない。道も険しい。現在でもそうだが、平安末期は神秘的、夜ともなればかなり不気味な土地だったと思われる。当時の人からすれば、天狗が出没する場所に思えたのだろう。

当時の遮那王(義経)は、自らが源義朝の子であるとは知らされていなかった。いや、鞍馬寺の中でもこの事実を知っているのはごくわずかな人々だったという。
伝承では、義経はこの場所で鞍馬天狗より兵法・剣術を教わったというが、司馬遼太郎はここで源氏の御家人・鎌田正近が義経に源氏嫡流の子であること教えることになった。

義経は鎌田正近に深夜、この僧正ヶ谷に降りてくるように促される。正近は義経に源氏の系図を見せ、自らの中に英雄の血が流れていることを、義経の心の中に刻み込む。

「ごらんあそばされましたか」
 と、正近は音をたてて燃える松明の炎をいちだんと近づけた。火が弾け、粉が散り、その名の墨痕が目に痛いばかりに輝いた。
「されば御曹司は源家の九郎君におわす」
 遮那王はうなずかない。その余裕もなく食い入るようにそれらの綺羅星のごとき名前を見、またしてもわが名に目を注ぎ、ほとんど呼吸をするのもわすれているかのようだった。

さらに正近は義経を説く。

「御父の仇を討ち参らせよ」
 正近が繰り返すこの言は、錐のごとくするどく少年の心に揉みこんでゆく。
「復讐者の資質は」
 と正近はいうのである。
 ――この濁世の栄達をのぞむな栄華にあこがれるな。
 正近の言葉は、少年の心につぎつぎと滲みこんでゆく。正近は唐土の臥薪嘗胆の故事をもあげた。復讐者の一生は復讐のほかの快楽を求めてはならぬ。復讐のみが、唯一最大の目標であるべきである。つねに利剣のごとく鋭い心を砥がれよ。この世における主題はそれのみであるべきであり、そのためにのみうまれてきたと思召されよ――と正近はその洛中洛外の群衆を魅了した口説をもって説き去り説き来たり、少年の心をほとんど掌にのせ、自在にした。

この正近の言葉が義経の中の野生を呼び覚ます。正近に出会わずとも、義経はいずれ源頼朝の群に参加したかも知れない。だが、この正近の言葉が義経を武に向わせ、奥州へ向かわせたのかも知れない。


僧正ヶ谷・不動堂

僧正ヶ谷・義経堂
義経の霊は平泉で亡くなった後、鞍馬に舞い戻ったという

天狗の実像は、京の兵法家だったともいうが、司馬遼太郎の小説にはどちらも登場しない。恐らく、天狗を源氏ゆかりの人物と仮定し、その人物が義経の鞍馬出奔を促す、というストーリーを考え出したのだろう。

鞍馬は義経が少年時代を送った地。後の源義経の原型が作られた時代とも言える。司馬遼太郎は鎌田正近を登場させることにより、後の義経のエネルギーの方向の源を示しているようにも思う。その意味では、鞍馬という人里離れた山の中は神秘的であり、その設定を劇的にしているようにも思った。


奥の院・魔王堂
(僧正ヶ谷の奥にある)

取材を終えて

「鞍馬」という土地は義経に神秘の影を与える。源義経は日本のヒーローの第一号かも知れないが、その超人的なイメージの形成に鞍馬は一役買っているような気がする。今日でもなお、寺の敷地は濃い緑の山の中にあり、金堂の先は神秘的な雰囲気を漂わせる。
鞍馬は人里離れた場所にある。現在では電車で30分だが、かつては京からもかなりの距離感があっただろう。司馬遼太郎を義経を現実感覚に乏しいというような描き方をしているが、ある意味では隔離されたような土地、しかも大きな寺の中という閉鎖的で特殊な世界で育ったなら、世間知らずになっても仕方がないような気もした。
そのような面も含めて、鞍馬は源義経の原型…その社会感覚を作り上げた土地なのかも知れない。

木の根道から僧正ヶ谷にかけては相当に道も険しく、義経が毎日この道を往復していたとすれば、相当に足腰を鍛えられたはずだ。
仁王門からはケーブルで上ることもできるが、重里記者と私は往時の義経の気分を味わおうと、九十九折から金堂へと歩いて上り、さらに僧正ガ谷から奥の院まで進み、そこから仁王門へまた戻った。歩くことにより、それなりに得るものはあったが、相当に疲労を感じた。昔の人は強かった…と思う反面、現代の私達の方が虚弱になっているのかも知れない。

余談だが、鞍馬には「峯麓湯(ほうろくゆ)」という温泉がある。鞍馬駅から無料送迎車が出ている(約20分間隔だっただろうか?)。この車に乗っても良いし、歩いても12分程度なので、鞍馬の街並みを見ながらゆっくり歩くのも良いかも知れない。
温泉は日帰りでも利用できる。露天風呂だけなら1100円(本館の風呂も含めれば2500円)。鞍馬寺の帰りに軽く汗を流して帰るなら露天風呂だけでも十分かも知れない。
露天風呂は鞍馬の山の緑がに包まれ、とても気分が良かった。温泉好きでなくとも、お薦めの場所だと思った。

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