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司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『大盗禅師』(下)

5.正雪紺屋

今回の取材では、二人の主要人物−由比正雪と鄭成功−のうち、由比正雪に焦点を宛て、静岡にて取材が行われた。
まず静岡市から少し離れた由比町に正雪の生家と伝えられる「正雪紺屋」を訪れた。
静岡〜由比町概念図 正雪紺屋
正雪紺屋では代々染物を家業として、現在も18代目の吉岡統一郎さんが受け継いでいる。
吉岡氏は、「吉岡」という姓について話してくださった。この姓は関西、特に京都周辺に多い。ここで興味深いのは、宮本武蔵の旧敵である京の吉岡一門も、武士である傍ら、染物を家業としていたということだった。京の吉岡一門と静岡・由比町の吉岡家。直接の証拠こそないが、なんらかの関連性があるように感じられる。「正雪紺屋」の吉岡家も、元来石田三成方の武士で、関ヶ原の合戦後、駿河に落ち延びたという説もあるという。
由比正雪門下の幹部的存在、丸橋忠弥は長曾我部元親の遺児とも伝えられる。そうであれば、幕府成立間もない頃、由比正雪が幕府転覆を図った遠因の一つには、関ヶ原で敗れた側の逆襲という側面があったかも知れない。


正雪の生家は、由比町の「正雪紺屋」の他に、駿府の宮ヶ崎町(現在の静岡市、浅間神社の近く)という説もある。吉岡さんは、宮ヶ崎と由比の間になんらかの関係(親戚)があったのではないか、という。宮ヶ崎で生まれて由比にあずけられた。或いはその逆であったのかも知れないという。


正雪紺屋の庭には、正雪を供養する祠がある。正雪の遺品が埋められていると伝えられる。明治初期に一度掘り起こそうとしたが、蓋となる石が大きくて、その日はそこで作業が中止された。ところが、その夜、人夫が熱を出してしまったという。これは偶然の出来事かも知れないが、当時の御当主は祟りを恐れ、作業そのものを中止。供養塔を乗せたという。
由比正雪の乱(慶安の変)の後、丸橋忠弥などは子も殺され、その処罰は過酷なものだった。犯罪人−特に志を持った政治犯−などの祟りを恐れ、神社などを作ってその霊を慰めるということは、よく聞かれる話だ。「正雪紺屋」とは単に由比正雪のみならず、同士たちの霊を慰め、守る場として残されたのではないか。


供養等


正雪紺屋の前には由比本陣跡がある。明治天皇も二回程宿泊されたそうだが、実は天皇は正雪紺屋が由比正雪の生家であることをご存知だったという。
由比本陣跡
現在は公園になっている
正雪紺屋の井戸
明治の初年、維新の元勲たち(大久保利通等)が
本陣に宿泊したことがあった。
そのとき、正雪紺屋の井戸水が飲水として使用されたという。


*正雪紺屋は吉岡さんのお住まいであり、吉岡さんも紺屋を営業されています。
供養等等も裏庭にあり、観光での対応は難しいということです。

6.由比正雪とは

由比正雪の出生を考えると、駿府・宮ヶ崎町説と、由比町(正雪紺屋)説がある。ただし、両方とも紺屋だったというのは共通している。正雪紺屋の吉岡統一郎氏の指摘のように、らにしても、なんらかの形で相互に関係があったのではないか。(『大盗禅師』では由比町出生という設定になっている)
また、吉岡氏の指摘のように、元来上方の出自の家系で、関ヶ原では石田三成方の武士だったという可能性もある。このあたり、浪人勢力の長となっていく遠因であるように思う。


さて、慶安の変=由比正雪には様々な見方がある。それは謎が多いということでもある。幕府に反逆した人物であるため、史料もなく、歴史から抹消されてしまったのだ。
ところが、歴史から消された、という割には、正雪紺屋が存在し、由比正雪の碑や首塚等もある。これは、一つには由比正雪という人物が庶民からは支持された人物だったということを示しているのではないか。クーデターを起そうとしたが、それは庶民の幕府への不満を代弁したものだったのかも知れない。庶民の間では「反逆者」ではなく、自らの声を代弁し、世の中を良くしようとしてくれた人物・・・だったのかも知れない。だから公的には消されても、民間レベルではその名が語り継がれたと考えられる。
一方、別の見方も存在する。それは朝廷との関係だ。徳川幕府成立後、朝廷はその権威を著しく制限された。公家諸法度等により政治的にも束縛され、春日壺参内事件のように、朝廷の権威がないがしろにされることもあった。恐らく、当時の後水尾天皇と徳川秀忠・家光の間にも、様々な攻防があったのではないだろうか。
由比正雪は、確かに兵法の大家であり、江戸の名士。多くの浪人を配下に持ち、大名たちも教えを請う存在。特に紀州公には可愛がられた。しかし、それだけで幕府を転覆させるところまで考えるだろうか。浪人の頭+紀州公・・・冷静に考えればとても幕府に太刀打ちできる力ではない。
そこに、朝廷の関与があったという説もあるようだ。天皇のお墨付きがあれば、やはり大層な権威付けになり、それは浪人をまとめ、世評を動かす力になる。天皇が背後に存在すれば、諸侯も味方に付く可能性がある・・・慶安の変の筋書きにはこんな背景があったのかも知れない。それ故、由比正雪という人物も、完全には歴史から抹消することができなかったのかも知れない。


明治天皇は、現在の正雪紺屋が由比正雪の生家と伝えられていることをご存知だったという。それは、天皇家が由比正雪の存在を覚えていたということになり、とりもなおさず、天皇家には親しく感じられる存在だったことを意味するのではないか。慶安の変に天皇家が関わったとは言い切れないが、少なくとも「自らに尽くしてくれた」という感覚はあったのかも知れない。
由比正雪は歴史から抹消された。しかし、完全には消えていない。といって顕彰される存在でもなかった・・・この微妙な在り方は、何を物語っているのだろうか。

7.再び小説『大盗禅師』

『大盗禅師』とは一体どのような小説なのだろうか?
読み終わったときの感想では、司馬さん独特の幻術小説に連なる作品であり、最後の幻術小説とも言える。日本国内の由比正雪の周辺と、明帝国再興を目指す鄭成功(父が中国人で母は日本人)の物語を巧みに結び付けている。
舞台は国内から遠く中国に及び、その広範囲な舞台の展開に破綻を見せない。このあたりは司馬さん独自のストーリー展開の巧さを感じさせる。また、舞台の広がり方は初期の『兜卒天の巡礼』を思わせるし、文春文庫版の磯貝勝太郎氏の解説にあるように、最後の小説『韃靼疾風録』と共通する部分もあるだろう。
幻術物として見た場合、初期の作品やもう一つの幻術長編『妖怪』と比較して、幻術の度合いがやや低い。奔放なストーリーではあるが、由比正雪など実在の人物をそれなりに(絶対的にではないが)リアルに描いている部分もある。
その意味では、司馬作品の初期と後期を結び、幻術ものでありながらリアリズムにやや近い作品と言えるのではないか。


この小説での一つのキーは、日本=由比正雪という舞台と、中国=鄭成功という異なる舞台の上で、浦安仙八が二つの人格を持つかの如くに描かれていることだろう。中国では鄭成功の高官・仙将軍として威厳を持つまでに至るが、日本に帰るとただの仙八に戻ってしまう。
禅師と並んで不思議な存在である蘇一官も、最初は得体の知れない神秘的な魅力を持つが、後半、中国より日本に戻ると、その神秘性が徐々に消滅していく。実は禅師そのものも、前半に比べ、後半は神秘性を失っていく。そして最後は由比正雪の乱の失敗という、極めて情容赦の無い現実が待っている。
石谷十蔵という人物が小説の終了間際に登場するが、彼はいかにも司馬さんらしい人物という気がする。彼だけは幻術小説的ではなく、通常の戦国物、幕末物のリアルで現実的な思考をする人物だ。この人物の登場により、由比正雪、大盗禅師等の幻術性=非現実性が際立つように思える。


『大盗禅師』は、ある一面室町時代の京を舞台にした同じ司馬幻術小説『妖怪』を思わせる部分がある。浦安仙八は『妖怪』の源四郎を思わせ、仙八を故郷から連れ出す禅師は指阿弥陀仏に重なるし、さらに唐天子をも思わせる。
しかしながら、『妖怪』が幻術に徹してストーリーが展開するのに対し、『大盗禅師』は最後にその幻術が消えて、空虚な現実が見えるかのような感じがする。そのあたりが、この小説の最大の特徴なのかも知れない。
取材を終えて
昨年(平成14年10月)の掛川取材(『功名が辻』)でも感じたが、静岡という土地は明るく豊かだと思う。そこに住む人々も陰りがなく、人馴れしているが素直さを感じる。やはり古来から東海道の道筋にあたる場所であり、情報が豊富で、温暖、農作物も良く穫れ、海産物もあって、生活にもゆとりがあったのではないか。正雪紺屋の吉岡さん、菩提樹院の先代御住職・佐橋氏・・・そんな印象を持った。

毎回取材で私が先頭をきるのが、巧い物探し。今回の取材では由比町の正雪紺屋を訪れたが、そのすぐ近くで桜海老のかき揚げを販売していた。注文すると、その場で揚げてもらえた。さくさくして、とても美味! 値段もとても安かったと思う。
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