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『司馬遼太郎を歩く』 取材レポート

大盗禅師

 

6回目を迎えた毎日新聞連載『司馬遼太郎を歩く』の取材レポート。
幻の作品、『大盗禅師』です。

『大盗禅師』について

今年(平成15年)2月に刊行された『大盗禅師』。
『城をとる話』と並んで長らく刊行されていなかった「幻の司馬作品」、最後の幻術小説だ。
江戸幕府初期、巷に浪人が溢れ、不安定な世情を背景にし、由比正雪の乱と明帝国の再興を目指す鄭成功が結び付けられ、日本と中国を舞台にした、最後の司馬幻術小説。
1968〜69年に渡って、「週刊文春」に連載され、1969年、文藝春秋社から刊行された。
今回は静岡を訪れ、由比正雪に焦点をあてて取材が行われた。

 

司馬遼太郎を歩く・取材レポート
『大盗禅師』(上)

平成15年8月31日UP
(取材日:平成15年7月5・6日)

 

(上) 1.小説『大盗禅師』
2.由比正雪と慶安の変
3.菩提樹院

4.安倍川
(下) 5.正雪紺屋
6.由比正雪とは

7.再び小説『大盗禅師』

1.小説『大盗禅師』

司馬さん最後の幻術小説と言われる『大盗禅師』。物語は豊臣家滅亡から30年後から始まる。豊臣方の大名は取り潰され、その後の江戸幕府の政策により多くの大名が取り潰される。世に浪人が溢れ、彼らは仕官の望みも殆どなく、しかも彼らの生活は厳しく制限されている。正しく絶望的な境地にあり、そのような人々が50万人もいたというのだ。
主人公の浦安仙八は摂津住吉でひとり兵法の技を磨く豊臣浪人の子。村の娘と結ばれて、そのまま漁師になろうとする、その寸前、豊臣秀頼より駿河久能山の大名に命じられる。それはもちろん幻術で、一人の怪僧−大盗禅師によるものだった。
大盗禅師は不平浪人を纏める由比正雪と結び、さらに明帝国の再興を目指す鄭成功とも密約を結ぶ。50万人にも及ぶ日本の不平浪人を集めて軍を結成し、鄭成功と共に清帝国を駆逐、その後、日本にとって返し、鄭成功の力を借りて幕府を転覆させようというものだ。

仙八はまず由比正雪に預けられ、さらに台湾と密貿易を行う五島列島・福江に向かい、台湾に渡る。その地で鄭成功の元、仙将軍として幹部に抜擢される。鄭成功より日本浪人による援軍を要請され、日本に戻る仙八だが、禅師と由比正雪の間には微妙な溝が出来てしまっている。由比正雪は単独で浪人を集め、幕府転覆を計り、その上で鄭成功を援助しようとする。しかし倒幕を決行しようとするその寸前で計画が漏れ、脆くも水泡に帰する。

2.由比正雪と慶安の変

『大盗禅師』は浦安仙八が主人公ではあるが、由比正雪、鄭成功という二人の歴史上の有名人を軸にして物語が進行するが、今回の取材では、由比正雪に的を絞って取材が進められた。
まず、由比正雪と慶安の変について簡単に振り返ってみよう。


由比正雪は、現在の慶長15年(1610)に生まれた。出生地は、静岡市内の宮ヶ崎町(浅間神社の近く)という説と、由比町(正雪紺屋)の二つの説がある。江戸に出て、楠正成の子孫と称する軍学者・楠不伝の弟子になり、やがてその娘と結ばれ、跡継ぎになる。
正雪の軍学は次第に評価が高まり、次第に江戸の「名士」的存在になってゆく。大名から家臣になるように、との誘いも受けるようになり、特に紀州公・徳川頼宣とは懇意になった。
こうして多くの弟子(=浪人たち)を抱えるようになった由比正雪。三代将軍徳川家光の死去と共に幕府転覆を図る。時に慶安四年(1651)7月29日。しかしながら、その寸前に幕府に計画が漏れ、仲間はことごとく捉えられ、由比正雪も駿府の旅籠・梅屋で自刃した。


『大盗禅師』では、正雪は由比町の紺屋の子とされている。江戸を逐電してきた福島家浪人・高松半平の弟子になり、その後、臨済寺の小僧になる。さらに高松半平の養子になるが、半平は楠不伝に殺される。正雪は不伝の弟子になるが、仙八を使って系図や伝書、旗などを奪い、さらに追い払い、無理やり後釜に据わるという設定になっている。

3.菩提樹院

静岡市内の菩提樹院を訪れた。ここには、由比正雪の首塚があるという。


静岡市地図 菩提樹院 由比正雪首塚の碑

由比正雪は江戸・駿河・京・大阪で兵をあげようとしたが、幕府に情報が漏れ、駿府の旅籠・梅屋で駿河奉行の配下に取り囲まれ、自刃した。首は安倍川の河原に晒されたという。
さて、菩提樹院は元々静岡市中心部にほど近い、現在の常盤公園のあたりにあった。(終戦の年に区画整理で市の東方の沓谷に移転した)
正雪の遠縁にあたる女性が、首の払い下げを願い出たが、許されなかった。そこで、番人がいないときに首を盗み出し、菩提樹院に埋葬したという。
先代住職の佐橋玄祥さん(現在は隠居されていらっしゃる)のお話では、首を盗むことには、役人と遠縁の女性の間で、暗黙の了解があったのではないかということだった。「罪人」の首であるから、公的に縁者に与えるわけにはいかないが、幕府の対面を傷つけない範囲で、配慮が成されたのではないか。また、首を埋葬するにあたっては、当時の菩提樹院の住職の許しがあったはずだ。ということは、やはり役人との間に暗黙の了解があったと考えられる。


首塚 辞世の句
秋はただ 馴れし世にさへ もの憂きに
ながき門出の 心とどむなり


菩提樹院には由比正雪の銅像がある。玄祥さんが建てられたそうだ。
玄祥さんは、由比正雪は世間で言われるような悪人ではなく、浪人を始め、庶民が苦しんでいたそんな時代、改革を志した人物と見られている。いわば庶民の味方であると。
由比正雪の生家が由比町にあるということについては、徳川家のお膝元の駿府であるのは幕府にとってはまずいことで、あえて少し離れた由比町に移したのではないか、ということだった。


銅像は今年(平成15)五月に佐橋さんが建てられた。
由比正雪というと、目つきが鋭い曲者タイプを想像しがちだが、
ある意味では世直しをしようとした人物。
実像はこのように清々しさを感じる人物だったのかも知れない。
由比正雪銅像

4.安倍川

「梅屋」で自刃した由比正雪、首は安倍川の河原に晒されたという。川の手前に小さな公園があり、そこに由比正雪の碑が建てられている。このあたりには名物・安倍川餅の店が何件かある。古風な建物に入り、重里記者、荒牧カメラマンと安倍川餅、わさびが効いたからし餅を食べた。安倍川餅は黒餡の古風な味。一方、からし餅はその名の通りぴりっとした辛味が口に残った。

安倍川 由比正雪の碑 安倍川餅(手前がからし餅)


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