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三浦義澄について

 

「三浦義澄は敵に後ろを見せない強い大将だった!」

紫郎の祖先であり、『つぶやき岩の秘密』でもしばしばその名を耳にする三浦義澄とは?
そして遥かな昔、三浦半島に勢力を持っていた三浦氏とは?
三浦氏と三浦義澄について、簡単にまとめてみました。

INDEX
1.東国武士団における三浦氏
  (桓武平氏略系図)
2.源頼朝旗挙
3.鎌倉幕府草創期の御家人
4.三浦氏滅亡
  (三浦氏略年表)
5.三浦氏の一族
  (三浦氏略系図)
6.三浦義澄とは?
7.三浦義澄が紫郎の祖先になった理由は?

1.東国武士団における三浦氏

はるかな上代、三浦半島は御浦と称されていた。海辺の近くという意味の「浦」に御をつけたのが語源だという。時代は下り、平安末期、桓武天皇の子孫が坂東の地に進出。三浦半島を本拠地とした三浦氏もその一つだった。

さて、それではその頃の関東はどのような情況だったかというと……まず、三浦一族の系譜から話を進めていきます。

武士の棟梁、というと、源氏と平氏になるが、三浦氏は平氏の一族だった。
平安時代、坂東の地は治安が乱れがちで、京より貴族が下向し鎮圧、「武家貴族」として次第に勢力を持つようになった。その中で、桓武天皇の孫・高望王は平姓を賜り皇族から外れる。その子達は坂東の地に根をおろしていった。
高望王の子で有名なのは、平国香(?〜935)、平良将、そして平良文。
国香と良将は北関東、良文は南関東に所領を広げて行ったと思われる。
良将の子・将門は伯父の国香と所領争いを起こし、国香を攻撃する過程で国府を攻めてしまい、坂東の地に大きな争乱が起きる。これがいわゆる平将門の乱(935〜940)だ。
この乱は国香の子・貞盛と藤原秀郷によって鎮圧されたが、これを機に坂東に力を振るった平氏の力は落ち、貞盛の子・
維衡は伊勢に本拠地を移す。この家系がいわゆる伊勢平氏、平清盛の先祖になる。
この中で、貞盛の孫・
維幹の家系だけが、常陸大掾氏として坂東の有力領主として残る。また、同じく孫の維時の家系からは伊豆の北条氏(後の鎌倉幕府の執権)が出ている。

平氏嫡流が本拠地の伊勢に移した跡、さらに坂東八平氏の祖ともいうべき平忠恒が乱を起こし、源頼信が鎮圧。これを機に源氏が東国で勢力を伸ばす。さらに東北地方で争乱が起きる。陸奥奥六群(現在の岩手県内陸部)の俘囚の長・安倍頼時が衣川を越えて進出。これを鎮めるために源頼義が派遣される(前九年の役、1051〜1063)。さらに安倍氏が倒れた後、陸奥、出羽を勢力下に収めた清原氏の内乱が起き、源義家が介入。(後三年の役、1083〜1087)。

これを機に関東では源氏の力が決定的になる。源頼義が相模守に任ぜられ、関東の多くの武士が臣従し、前九年の役、後三年の役に従った。三浦為道は源頼義といち早く臣従関係を結び、奥州遠征に従い戦功ををたてた。為道の子・為継は、源義家に従い、後三年の役(1083〜1087)に出ている。
また、足利、新田、佐竹といった、源氏が北関東の有力領主として土着・勢力を広め、甲斐には同じく源氏のの武田氏が勢力を伸ばしていった。

それでは坂東の地で平氏の力がまったくなくなってしまったかといえば、そうでもない。平良文の子孫は南関東の地に広まり、地道に開拓を進めた。彼らは坂東八平氏と呼ばれ、三浦氏もその中の一つだった。

このような状況の中、関東の武士団の分布を見てみると、北関東には源氏の有力氏族が多く、南関東には良文系の坂東八平氏が根を張り、平将門を討ち取った藤原秀郷系の氏族もまた関東一円に勢力を伸ばしていたといえる。

さて、以上の坂東武士団だが、その規模は大小様々だった。実はこのコンテンツは東国武士に造詣の深い作家・永井路子さんの本を参考にして書いているが、永井さんは『つわものの賦』という本の中で次のように分けている。
(1)大企業クラス……
常陸大掾氏(平国香の子孫)、小山氏(藤原秀郷の子孫)、足利氏(源氏)、上総氏(坂東八平氏)そして、畠山氏(坂東八平氏・秩父氏の主力格)は一族を併せて企業カルテル的存在としている。
(2)中企業クラス……三浦氏、中村氏、鎌倉党(大庭氏、梶原氏などの系統)、千葉氏など(いずれも坂東八平氏の系統)。
(3)有限会社クラス……北条氏など
(4)個人経営クラス……熊谷氏など多数

このようにして見ると、相模の武士団(三浦、中村、鎌倉党)はいずれも中規模に属する。しかしながら、規模はそれほど大きくなくとも、生産効率が高く先進的な地域だった。しかも三浦氏は操船技術も熟達し、中規模ながらも時代を先取りした武士団だったのではないだろうか?
そして後に三浦氏の最大のライバルとなる北条氏は、この時点では他の武士団と比較にはならないほどの弱小勢力だった。

(下は桓武平氏の略系図です。参考まで)

桓武天皇……高望王┬平国香―貞盛┬維衡……正盛―清盛―重盛―維盛…(伊勢平氏)
         |      |
         |      └繁盛┬維幹…………………………(常陸大掾氏)

         |         |      
         |         └維時………┬………………時政(北条氏)
         |               |
         ├平良将―将門         └………………直実(熊谷氏)
         |
         └平良文―忠頼┬将常…武綱┬基家………………………
(渋谷氏)
                |     |  
                |     └重綱┬重弘┬重能―重忠(畠山氏)
                |        |  |
                |        |  └有重………(稲毛氏)
                |        |
                |        ├重隆………………(河越氏)
                |        |
                |        ├重継………………(江戸氏)
                |        |
                |        └行重………………
(秩父氏)
                |
                ├忠常…常永┬常兼…………………広常
(上総氏)
                |     |
                |     └常兼…………………頼胤
(千葉氏)
                |
                ├頼尊………宗平┬重平…………………
(中村氏)
                |       |
                |       ├実平…………………(土肥氏)………(小早川氏)
                |       |
                |       └宗遠…………………(土屋氏)
                |
                └忠道┬為道……………
義明┬義澄(三浦氏)
                   |       
          
                   |       
  └義連(佐原氏)…┬…(芦名氏)
                   |         
         └…(佐久間氏)
                   |
                   └景道―景政┬景経┬景忠…景親
(大庭氏) 
                         |  |
                         |  └景長…景時
(梶原氏)
                         |
                         └景次………………
(長尾氏)………(上杉謙信)

     注・赤字は坂東八平氏の氏族ですが、これにはいろいろな説があるようです。
       この系図での八平氏は、あくまでも一つの考え方としてみてください。

常陸大掾氏は、平国香の子孫で唯一坂東に残った有力氏族。
畠山氏は武蔵国一帯に分布した秩父氏一族の中心。渋谷、稲毛、河越、江戸、秩父他の一族とゆるやかな連合体をなしていた。
中村氏は、一族の土肥・土屋などと併せて一つのグループとして見るとわかり易い。西相模の海沿い(現在の平塚〜大磯〜二宮〜小田原〜湯河原一帯)を中心に勢力を伸ばしていた。
大庭氏・梶原氏・長尾氏は、鎌倉氏を称した権五郎景政から派生している。そのため鎌倉党と総称されるが、その中心は大庭氏だった。現在の鎌倉〜藤沢〜茅ヶ崎あたりを勢力範囲にしていた。
三浦氏は、三浦半島から鎌倉東部あたりまで進出していた。

2.源頼朝旗挙

さて、比較的源氏の影響力が強かった関東の地だったが、平安末期、保元の乱(1156)・平治の乱(1159)を経て平清盛を筆頭とする平氏が台頭すると、その支配化に入る。
ところが、清盛の家系の平氏は伊勢を基盤に発展し、西国の水運・交易により成長してきた。したがって、さながら農場主のような東国武士にとっては考え方も違うし、平氏の機嫌を損ねれば、所領も取り上げられるということもあった。平氏の支配に対する不満が潜在化していたわけだ。

そんなところに源頼朝(1147〜1199)が伊豆の石橋山で挙兵する(1180)。旗挙げに参加したのは、妻の実家の北条氏(伊豆半島西部を本拠地とした)、中村氏系の支族・土肥氏(相模西部・真鶴半島)などだった。このあたりで三浦義澄(1127〜1200)が歴史の舞台に登場する。

三浦義澄の父・義明(1092〜1180)の娘は源義朝の長男・悪源太義平の乳母であり、三浦氏は頼朝に対しては好意的だった。
三浦義明は、石橋山の戦いに義澄を差し向けるが、洪水で参戦できず、頼朝は房総半島へ向かう。このとき、三浦義明は89歳。頼朝とともに逃れるには年老いていた。嫡男の義澄を逃し、居城の衣笠城(現在の横須賀市)を守って討死にする。
三浦氏は、頼朝旗挙げ依頼の功臣であるが、逆に見れば、頼朝の旗挙げとは、三浦氏と千葉氏の旗挙げであり、その上に頼朝が乗っていた…とも言えるだろう。

頼朝の軍は、千葉氏の参戦もあって、兵力は増強された。もともと東国武士は平氏政権に不満を持っている。兵力は雪だるま式に増え、ついに富士川の戦い(1180)で平氏に勝ちを収めた。
以後、頼朝は本拠地を鎌倉に定め、三浦氏も挙兵以来の功を認められて勢力を伸ばしていった。やがて一の谷(神戸、1184)、屋島(高松近郊、1185)の戦いを経て、壇ノ浦で平氏は滅亡(1185)、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開く(1192)。

三浦義澄や、その弟佐原義連は、平家との戦いに従軍。義澄は源範頼(?〜1193)の配下で戦ったが、水軍を率いていたこともあり、壇ノ浦の海戦では源義経(1159〜1189)に従い、戦っている。三浦氏は海戦が苦手な東国武士の中にあって例外的に海に慣れ親しんだ一族であり、義経にとっては貴重な戦力になっていたと思われる。

3.鎌倉幕府草創期の御家人

鎌倉幕府とは、源頼朝が中心となって開いた武家政権…そんな印象を持つが、その誕生と実態は後の江戸幕府などとはかなり異なっていた。京の体制に不満を持つ関東の地主達が自分たちの代表として武士の棟梁・源頼朝をかつぎだしたというのが真相だ。したがって、幕府も有力豪族たちの連合の上に頼朝がのって、力の均衡を取っていたというのが真相だと思う。
そのためには、頼朝は自らを権威付けする必要があった。義経が退けられたのも、頼朝の弟としての自負が強過ぎ、このバランスを乱そうとしたためと思われる。

鎌倉は三浦半島のすぐ西側に位置する。このことからも、頼朝がいかに三浦氏を頼りにし、三浦氏の影響力が強かったかがうかがわれる。
鎌倉幕府は後に執権職を独占する北条氏が当初から実力を持っていたというが、この時点ではまだまだ弱小勢力であり、三浦氏の方が遥かに凌いでいた。

幕府草創期は、難しい状況でありながらも、頼朝という重石が存在したこと、有力御家人の力が拮抗していたことなどから、ほぼ平穏だった。ところが、頼朝が亡くなった後は、徐々にパワーバランスが崩れていく。
ここからは、各御家人の権力闘争、サバイバル・レースの観を呈して行く。その闘争は頼朝の子や孫の背後に各御家人がつくことで進められる。

比企氏は、一族の女性が頼朝の乳母を務めたこともあり、当初から有力御家人の一つだった。それに加えて、頼朝の長男・源頼家(1182〜1204)に比企能員(?〜1203)の娘が嫁ぎ、男児を設けたことから勢力を増し、専横を極めた。比企氏は北条氏や三浦氏によって討たれ、頼家も二代将軍の座を奪われた。

頼家の弟・源実朝(1192〜1219)が三大将軍に就くが、頼家の子・公暁(1200〜1219)に暗殺される(1219)。この事件の背景にあったのは、北条氏と三浦氏の権力闘争だといわれる。
実朝の養育にあたったのは、北条氏だったが、公暁の乳母は三浦氏だった。三浦義村(義澄の嫡男、?〜1239)は、公暁を使い、実朝と北条氏を打ち倒そうとしたらしいが、北条氏を討つことはできなかった。そのため、三浦義村は公暁を殺害、事件を闇に葬ったといわれる。

4.三浦氏滅亡

比企氏失脚後、畠山氏も三浦義村に討たれる(1205)。最後に残ったのは、北条氏と三浦氏だった。
三浦義村の代は北条との激しい権力闘争は続いくが、武力闘争にまでは発展しなかった。従兄弟にあたる和田義盛が北条氏に戦いを挑んだとき(1213)も、手助けすると約束しながらも、冷静に形勢を判断して北条氏方に付いている。三浦義村はかなりの権謀家でもあったのだ。
しかし、その次の代、泰村(1203〜1247)・光村の兄弟の時代、三浦氏は北条氏に戦いを挑むが滅ぼされ(宝治の乱、1247)、僅かに支族の佐原氏(義澄の弟の家系)が三浦氏を名乗る。

この佐原三浦氏は、鎌倉時代は北条氏の下で細々と存えていたが、足利尊氏らによって幕府が倒されると息を吹き返し、三浦半島〜相模東部を勢力下に収めるまでになった。だが、強敵・北条早雲が登場する。
早雲は在世時は伊勢新九郎長氏と称し、京で足利幕府に仕える侍だったが、妹が駿河の今川氏親の正室となり(義元の母、後の寿桂尼)、食客となる。やがて伊豆を支配下に収め自立、小田原の大森氏を追って相模西部に勢力を確立した。

当初は北条早雲を押し気味だった三浦氏だが、やがて追い詰められ、油壷に篭城、ついに攻め滅ぼされ(1516)、鎌倉以来の名族は歴史の表舞台から消えたのだった。
(とは言っても、三浦氏の子孫を名のる武士は多く、江戸幕府の旗本にも三浦氏がいたという)

(三浦氏関係の略年表を載せます。これもご参考まで)

年代 出来事 三浦氏関係(その他)
935〜940 平将門の乱  
1051〜1063 前九年の役 三浦為道、源頼義に臣従、奥州へ
1083〜1087 後三年の役 三浦為継、源義家に従軍
1156 保元の乱  
1159 平治の乱 (源義朝、平清盛に敗れ死亡、頼朝、伊豆に流される)
1180 源頼朝、石橋山で挙兵 三浦義澄、参戦しようとするが、悪天候のため間に合わず
三浦義明、衣笠城で討死
  富士川の戦い (源頼朝、平氏軍に勝利)
1184 一の谷の戦い 三浦義澄、和田義盛、佐原義連など参戦
1185 屋島の戦い  
1185 壇ノ浦の戦い (平氏滅亡)
1192 源頼朝、征夷大将軍に
鎌倉幕府開かれる
三浦義澄、朝廷の使者を出迎え、「三浦ノ次郎義澄」と名乗る
1199   (源頼朝亡くなる)
1200   三浦義澄病死
1203   (比企氏討たれる)
1205   (畠山氏討たれる)
1213 和田義盛、北条氏に敗れる 三浦義村、北条氏に味方する
和田義盛討死
1219 源実朝、公暁に殺害される 三浦義村が事件の黒幕だった(?)
1221 承久の乱 三戸友澄討死
1239   三浦義村亡くなる
1247 宝治の乱 三浦泰村・光村など一族の殆どが討死
(支族の佐原氏のみが残り、以後三浦氏を名乗る)
1516   佐原流三浦氏、油壷に篭城、北条早雲に滅ぼされる

5.三浦氏の一族

それでは、三浦氏の一族について簡単に振りかえってみよう。
鎌倉時代、和田氏、佐原氏などの名が見えるが、実は彼らは皆三浦の一族だ。三浦氏は嫡男以外はその所領の地名を苗字にしていた。
頼朝の挙兵時に衣笠城で討ち死にした三浦義明には何人かの子がいた。長男義宗は30代の若さで亡くなったため、次男義澄が家督を継ぐことになり、三浦氏を名乗る。

杉本義宗1126〜1164
三浦義明の長男だが、30代の若さで早世したため、家督は弟の義澄が継いだ。
義宗は、杉本(現在の鎌倉市内、杉本寺がある土地)に館を構えたため、杉本義宗と称される。

和田義盛(1147〜1213)
杉本義宗の嫡男・義盛は和田里(現在の三戸浜のすぐ北、和田浜の近くだ!)に本拠地を置き、和田氏を称する(義澄には甥にあたる)。義盛は勇猛で頼朝在世時は、鎌倉幕府の別当として権力を振るったが、北条氏と敵対して滅ぼされた。

佐原義連(生没年不明)
三浦義澄の弟にあたり、源義経の平氏との戦い、一の谷の合戦の時には、いち早く鵯越の崖を馬で駆け下り、名を馳せた。
前述のように、三浦氏の大半が北条氏に滅ぼされた後も、この義連の子孫の佐原氏はかろうじて残り、三浦氏の名を足利時代に伝えている。
この佐原氏の流れからは、後に尾張で織田信長に仕えた佐久間氏、会津若松を本拠地にした東北の強豪・葦名氏(後に伊達政宗に滅ぼされる)などが出ている。

三浦義村(?〜1239)
三浦義澄の嫡男。義澄亡き後、北条氏と水面下で激烈な戦いを行った。権謀家という言い方が悪ければ、冷静な判断力を持った政治家とも言える。
従兄の和田義盛が北条氏に兆発され、戦いを挑んだときも、義盛に協力を誓いながらも、土壇場で北条氏に寝返った。また、二代将軍の子・公暁が源実朝を殺害した事件の黒幕とも言われる。
常に冷静に状況を判断し、好機を待つ人物だったことから高く評価される人物だが、私としては、彼の時代は北条氏が力を伸ばし、一方三浦一族は有力な支族である和田氏を失っているのも事実だ。

三浦義澄には多くの子がいたが、その中の十男・友澄は、三戸に所領を持ち、「三戸友澄」と名乗った。承久の乱(1221)で朝廷側に付き、討死。三戸の台地に墓があるという。

(参考までに、下に三浦氏の略系図を載せます)

義継―義明義宗(杉本)――義盛(和田)――常盛
     |
     
義澄―――――┬有継(山口)
     |       |
     
義久(大多和)義村―――――朝村
     |       |       |
     
義春(多々良)重澄(大河戸)泰村
     |       |       |
     
義秀(長井) 胤義     光村
     |       |       |
     
重行(杜)  友澄(三戸) 家村
     |               |
     
義連(佐原)―盛連―経連  資村
     
        |
             └
盛時(三浦)…………………………義同―義意
             

   *三戸友澄は三戸の台地に墓があるらしい
   *
佐原盛時は、宝治の乱で三浦宗家が滅亡した後、三浦氏を名乗る
   *佐原流三浦氏は、北条早雲により油壷で滅びる

6.三浦義澄とは?

『つぶやき岩の秘密』の主人公・三浦紫郎は三浦義澄の直系の子孫だという。それでは、義澄とはどんな人物だったのだろうか?
東国武士に造詣の深い歴史作家の永井路子は、『相模のもののふたち』という著書の中で三浦義澄のことを以下のように記している。

…義澄は慎重な男だから、(北条氏への)対抗意識はおくびにも出さなかった。このがまん強さは、従来の鎌倉武士のイメージからは程遠いかも知れない。が、これはむしろ、我々の鎌倉武士に対する固定観念がまちがっているのだ。昔の武将とて決して単純な頭の持主ではない。遠い見遠しと広い視野を持って目標に向って一つの意思を持続させること――これがなければ真の勝利者にはなれない。義澄は父義明ゆずりの冷静さで、地盤固めに徹した男、といえるだろうか。

つまり、三浦義澄は冷静に計算のできる男、客観的に情勢を判断できる武士だったのだ。いわば智将タイプ。戦いになれば、勇猛果敢な東国武士だったが、それだけの男ではなかった。そうでなければ、あの権謀作術に満ちた北条氏を相手に廻して互角以上に振舞えるわけがない。我慢ができる男だったからこそ、三浦氏の全盛期を呼び寄せることができたのだ。
三浦義澄の没年は、源頼朝の死の翌年であり、その在世中は頼朝という重石が存在した。その後の御家人同士の抗争に比べれば、まだしも平穏な時代だったのかも知れない。

紫郎は「三浦義澄は敵に後ろを見せたことのない、勇敢な大将だった」というが、その実像はなかなかに冷静な男。義澄が紫郎であれば、亀さんに「地下要塞に入りましょうよ…」と兆発され、なんと言われても我慢して入らなかったのではないかと思う。
むしろ、敵に後ろを見せず、逃げないという点では甥の和田義盛あたりの方が当てはまるような気がする。

7.三浦義澄が紫郎の先祖になった理由は?

『つぶやき岩の秘密』の原作者、新田次郎は、なぜ紫郎を三浦義澄直系の子孫としたのだろうか?
原作者の新田次郎が世を去って20年余り。その理由はわからないが、あくまでも私の推測、ということで、以下の文をお読みください。

(1)孫へのメッセージ
『つぶやき岩の秘密』は、新田次郎がその頃生まれた孫二人に「おじいちゃんが書いた少年小説だ」と自慢できるようなものを書きたかった、という動機で生まれた。いわば、孫へのメッセージが込められている。新田次郎は諏訪藩の武士の子孫であり、孫にもその気概を受け継いで欲しいという願いがあったのかも知れない。主人公も東国武士として名を馳せた三浦氏の子孫とし、勇気のある少年を描きたかったのではないだろうか。

(2)三戸浜と三浦氏
あるいは、前述のように義澄の十男・友澄は三戸に本拠地を置き、その墓も三戸の台地に現存する。新田次郎は三戸浜滞在中、散歩の途中で友澄の墓を見つけて興味を持ったのかも知れない。また、実際に三戸の集落には三浦氏の子孫の方が現在も居住しているのかも知れないし、新田次郎もその方と面識があったということも考えられる。

それでは、数ある三浦氏の中でも、なぜ三浦義澄なのか?
父の義明は、剛毅さと冷静さを兼ね備えたなかなかの人物で、頼朝の旗挙げを”演出”した立役者だが、残念ながら旗挙初期に討死している。
和田義盛は侍所の別当として権力を振るい、剛毅な人物だった。また佐原義連は、武名も高く、一族の中でも愛された人物だったという。しかし彼らは三浦一族ではあるが、本家ではない。
三浦の本家の中では、三浦義村は高度な政治家ではあったが、それ故に権謀家のイメージが強い。従兄の和田義盛を見殺しにしたこともマイナスイメージだ。義村の子・泰村もなかなかの人物だったらしいが、北条氏に滅ぼされていて、紫郎の子孫としてはネガティブなイメージになってしまう。
一方、三浦義澄は義明の嫡男であり、三浦氏の最盛期の人物である。頼朝の旗挙当時から付き従い、一の谷や壇ノ浦の合戦にも参戦している。マイナスイメージになるような出来事とも無縁だ。冷静で慎重な義澄の時代、三浦氏は支族も含めて安泰だった。そのようなことから紫郎の先祖に設定されたのではないだろうか。

さらに、新田次郎というペンネームは「角間新田の次男坊」から来ている。(角間新田とは諏訪の地名であり、新田次郎の出身地)
三浦義澄も三浦家嫡流を継いだが、本来は次男であり、幕府が朝廷の使者を迎えたときも、「三浦ノ次郎義澄」と名乗っている。この故事に因んでいるような気もする。

さて、紫郎は三浦義澄の直系の子孫だという。それでは、友澄の子孫ではなく、嫡男・泰村の子孫、ということだろうか?

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